ピーターの航海日誌

アラ還おじさんの雑記Blog

AMラヂオ

歌に思い出が寄り添い、思いでは歌に語りかけ、そのようにして歳月は、静かに流れていきます。

今はもうありませんが、この言葉で始まるNHKの番組「日本のメロディー」をごぞんじですか?  当マイクロフォン・・・と自分のことを紹介される元NHKアナウンサーの中西龍さんが優しく語りかける番組でした。番組名のとおり、お便りを読みそのエピソードにまつわる日本の曲が流される番組です。その番組の最後のコーナーで中西龍さんが、俳句を独自に解釈し、この句が詠まれた時は、この様な状況だったのかなと想像を膨らませて語ります。そしてそれは、あくまで想像の範囲なので「・・・だったかも知れません。」と最後に付け加えられます。

お袋がこの番組のファンで、最後の中西龍さんの解釈の部分をテープに録音し、何度も何度も聴いていました。また、それらの文章がまとめられて出版されたものが、我が家の本棚にもあります。僕は、俳句そのものが良くわからなかったのですが、中西龍さんのおかげで楽しみ方(吟行し詠むのではなく、聞くだけですが・・・)が、少しわかった気がします。

どこかで聞いたお話なのですが、その昔、ラヂオは高価なものだったので、タンスの上におかれ、茶の間で聞くというか、拝聴するとう感覚で聞いていた。TVになって目の高さになり、どちらかと言えば目の下で観るようになった。ラヂオからTVに主流が変わったことでおこった変化は、ラヂオの時代は、耳学問なのですが、学ぶことが多かった。TVになって番組に出ている人が身近になり、銀幕のスターは近寄りがたかったが、だんだん今の時代に近づくほど、スター性もうすれ、番組も下世話な話、低俗な内容が増えたとのこと。なるほどそうかもしれません。

中西龍著「私の俳句鑑賞」(読売新聞社 ISBN4-643-87104-0)のあとがきを読むと、「放送番組は送り手と受け手の間の目に見えぬ絆で結ばれてこそはじめて成り立つ」の一言が目にとまりました。双方向でやりとりのできる時代なのに、反対に絆の部分が希薄になってしまった様な感じがします。

家の中でも無い、外でも無い、中途半端な縁側でおじさんたちが将棋をさし、おじさんたちがたれる言葉の中からガキだった僕たちも学ぶことがありました。耳学問も生きていく上での大切な、学校では学べない学問です。これだけ情報ツールが発展しているのに、その曖昧な空間や、茶の間、ラヂオといった物の存在が消えつつあります。子どもたちが、(雑学ですが)学べる環境があればなぁと思っています。

まぁ小学校の時、クラスの女の子の中には、耳年増もいましたが・・・。

私の俳句鑑賞

私の俳句鑑賞