ピーターの航海日誌

アラ還おじさんの雑記Blog

案山子

さだまさしさんの「案山子」は、津和野がモデルだと長い間いわれていましたし、いやここだ、いやあそこだと色々な場所があげられてもいました。今年の朝日新聞の日曜版かな、ご本人が、あれは津和野を舞台にしている。父でも兄でもなく、津和野城跡の松の木を擬人化し、都会にいる子どもへの、気持ちを代弁させているとのことが書かれていました。とりあえずこの件について、ご本人のお話ですから、解決ということで。

津和野を旅したことはありますが、乙女峠マリア聖堂には行きましたが、津和野城跡にはいきませんでした。この話を知っていたら、城跡にいって、青く細い川や、橋のたもとの造り酒屋の煉瓦煙突を、松の木と一緒に眺めたことでしょう。ちょっと残念。

この歌には、僕個人の想い出がある曲なのです。弟が大学四回生の時、学校側から新しい学部?院?ができたので、残らないかと言われたそうです。そのころの僕の仕事は生産技術で、新開発された商品を、生産ラインにどう乗せていくかの実験のお手伝いをしていました。その関係で多くの院出の人や、ドクターの方などと一緒に仕事をする機会があったのです。仕事中に世間話をするのですが、そのころは、院を出ただけで給料がかなりちがうのです。それを知っていたので、両親にぜひ行かせてやってくれと言いました。問題は学費です。その当時、僕は趣味が貯蓄ではないのですが、同年代の同僚や友人たち以上に貯蓄がありました。なんなら学費貸してもいいよ。院出なら給料高いから、すぐに返えしてもらえるよなんて話もしました。(本気で、そのつもりでした。)結局、南極、放送局で、親が全額負担で大学院に行くことになりました。

こんな事があったので、「案山子」を聴く度に、父さんではなく、田舎に残った長男が、都会に行った弟を心配して語っているように聞こえてしまうのです。お金、大丈夫か? また、もうちょっとだけ親のこと気にかけろやとね(笑)。

実は、学費の件に後日談があるのです。四年間学校に行くのに学費を奨学金にしても、社会に出て返していくのも大変だろうと親心で、全額親が負担したのです。続いて二年間も全額負担。しかし、出たとたんに学校の先生になったのです。当時は学校の先生になれば奨学金を返さなくてもよい制度だったのですが、当の本人も、親も、兄の僕も、父方母方の親戚のだれもが、そんなことはないと思っていたのです。しかし学校先生になってしまったのです。(ちなみに教員免許は持っていませんが)

お袋は、時々思い出したように「六年間奨学金にしていたら良かったのになぁ」と悔やんでみたり。学校は出したものの、社会に出てすぐに結婚したので「家に金を入れてくれなかった」と言ってみたり。

しらんがなぁ。 わしに言うな。

私花集〈アンソロジイ〉

私花集〈アンソロジイ〉