ピーターの航海日誌

アラ還おじさんの雑記Blog

横井さんゴッコ

神戸は山と海に挟まれた街、家から北(神戸っ子は「山側」「上」と言う)へ少し行けば山なので、虫取りや山登りなどの遊びができる。家から南(神戸っ子は「海側」「下」と言う)へ海パンやバミューダをはいてTシャツを着て下れば、海水浴ができる。近所でそこそこ自然と遊べるのです。
家の山側にある八幡さんから勝福寺というお寺に抜ける山道を歩くと、途中、道の片側が崖になっていて、絶好の遊び場なのです。その崖はそのまま須磨女子高等学校(現須磨学園)の校庭につながっています。山道から段ボールをおしりにしいて崖を滑りおりるのです。半ズボンのなかに赤土が入り、パンツが茶色に染まって、お袋が洗濯しても落ちないとよく怒っていました。
1972年にグアムから横井庄一さんが帰国しました。少しして、横井さんの様々なサバイバルの方法や道具が少年誌にも掲載されたのです。そこで、その崖に穴を掘る、横井さんゴッコがスタートしたのです。穴は一つだけではなく、学校対抗で穴掘りをしていました。(子どもの数が多く、高いビルなどもないので、小学校の屋上に上れば、あちらの小学校や中学校、こちらの小学校が見える、ご近所に学校が沢山ある時代でした。)
映画の「大脱走」を見たり、その原作を読んでいたので、「穴を木材で補強しないと危ないぞ」と言ってその木材をどこから調達するか(早い話が盗んでくる)話をしながら、ぼつぼつやっていたある日、朝礼で穴が崩れて生き埋めになり、亡くなった子どもが出たとのこと。横井さんゴッコは禁止となりました。
いまから考えれば、危険と隣り合わせ、場合によっては命がけの遊びをしていました。また危険性はある程度認識していて、「やばい」「いけない」とおもいながら「えい、やぁー!」とトライしていたような気がします。集合住宅の階段の踊り場から、隣の低いビルの屋上に飛び移る遊びもありました。大人になってその場所を訪ねると、足がすくんで絶対に小学生の時のように、飛び出すことのできない場所でした。このような遊びをしていたら、学校の屋上の天窓の上に登って、落ちて死んでしまうような判断ミスはしないでしょうね。だから危ない遊びをしなさいとは絶対にいえないし・・・微妙。